1.  イコンの起源と意味について

 イコンとは、ギリシャ語の「エイコン(像)」という意味の言葉で、それがキリスト教の発展の歴史の中で、とくに東ローマ帝国(ビザンチン)などで、教会や修道院の壁や祭壇や天井などに、華麗なフレスコ画やモザイク画として描かれるようになってゆく。そのテーマはキリストの顔、その誕生から十字架・復活・昇天に至る生涯、聖母マリア、聖母子、聖人、天使など多様である。イコンの目的は、美術的の鑑賞するためではなく、自らの信仰を表現するものとして描かれ、それを見る者にとっては「眼に見えるイコンの像をとおして、見えない神への信仰へと誘(いざな)われる」導き手となるためのものである。

 教会の壁面に描かれた聖画や聖像から、木版に描かれるようになったイコンの最古のものは、6世紀に描かれてエジプトのシナイ山麓の聖カタリナ修道院に納められた「聖母子のイコン」と、コプト教会に起源をもつ「キリストと聖メナス」のイコンである。この木版イコンは、柾目の木の板に細かな砂・粘土・卵黄・石膏などで下地を重ね塗りし、その上に木炭・植物・朱丹・昆虫からとった顔料・鉱物の粉などの絵の具を油と混合して、丁寧に描いてゆく。

 

 2.イコンの受難時代と再発展

 しかし7世紀に入ると、イコンに対する厳しい受難の時代が訪れる。ユダヤ教やイスラム教の厳しい戒律では、「神の像」を作ることを固く禁じているため、小アジア出身のローマ皇帝レオ・イサウリコにより「聖像破壊令(イコノクラスト)」が発令され、各地で貴重な聖像が壊され、また美しい壁画が削り取られるという「聖像破壊運動」が起こります。この受難時代は実に120年も続きますが、ようやく8世紀末の787年の「第2回ニケア公会議」において、教会は聖像崇敬を擁護・公認化するにいたります。

 再び花開いたイコンの黄金時代の波は、12~13世紀にかけてビザンチン世界から東欧の世界に広がり、やがてロシアに到達します。そしてロシアのキエフ公国のウラジミール侯爵のキリスト教への改宗によって、イコンはロシアの国家的な技術の流派が発展し、最高潮の時期をむかえます。今にち「イコン」と言うとほとんどが、この木版にフレスコ聖像画法で描かれた「ロシア・イコン」を指すほどになりました。

 さてロシア正教の典礼において、パンを「キリストのからだ」に「聖変化」する重要な部分は、信徒席から「イコノスタシス」という「聖なる衝立て」で仕切られた、内陣の祭壇でおこなわれる。このイコノスタシスの表面に華麗なイコン画が数多く描かれ、壁画や壁に懸けられた木版イコンなどと合わせて、聖堂全体が荘厳な信仰空間となるのである。

 1917年のロシア革命後は、古い貴重なイコンの収集と修復がソ連邦の国家事業とされ、モスクワのトレチャコフ美術館や、サンクト・ペテルブルグ美術館、スパソ・アンドロ二コフ修道院内のリブリョフ美術館などで今日でも貴重なイコンを観ることができる。

ビザンチン様式の聖母子イコンには、主に三つの類型がある。

第一は、「みしるしの聖母」と呼ばれ、聖母は両手を大きく広げて「祈り(オランテ)」の身振りを示す。幼な子イエスは、マリアの胸の位置の大きな「神の栄光を表す円形(メダリオン)」の中に描かれる。

第二は「ウラディミル型聖母」で、「エレウサ(慈悲深さ、または愛のいたわり)」というギリシャ語でよく知られている。聖母と幼子が頬を寄せ合って、やさしく抱擁し合う姿で描かれている。

第三は「ホディギトリア(道を示す者)型聖母」(アジギトリアとも言う)と呼ばれるもので、マリアは左手で幼子を抱き、右手はイエスを指し示し、全世界に「救いの道」であるキリストを紹介する。マリアは「神の母(テオトコス)」として、神聖にして、威厳に満ちた姿として描かれている。これは9世紀ころから、コンスタンチノープルを中心とした、ビザンチン・イコンの標準的な形となる。

ーこのイコンは第三の「ホディギトリア型聖母」で、幼な子イエス・キリストは両手を広げて、人類に「救いの道」を示している。